|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 三 : [み] 1. (num) three ・ 三国 : [さんごく, みくに] 【名詞】 1. three countries ・ 国 : [くに] 【名詞】 1. country ・ 時 : [とき] 1. (n-adv,n) (1) time 2. hour 3. (2) occasion 4. moment ・ 時代 : [じだい] 1. (n-t) period 2. epoch 3. era ・ 代 : [よ, しろ] 【名詞】 1. world 2. society 3. age 4. generation ・ 中 : [なか] 【名詞】 1. inside 2. middle 3. among ・ 中国 : [ちゅうごく] 【名詞】 1. (1) China 2. (2) South-west most region of Honshu 3. middle of a country 4. the Hiroshima area
三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から、西晋による中国再統一(280年)までを指す。狭義では後漢滅亡(220年)から晋が天下を統一した280年までを指す。最狭義では三国が鼎立した222年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。 229年までに魏(初代皇帝:曹丕)、蜀(蜀漢)(初代皇帝:劉備)、呉(初代皇帝:孫権)が成立、中国国内に3人の皇帝が同時に立った。三国時代については、陳寿が著した『三国志』、明代に書かれた『三国志演義』および、さらに後世の三国時代を扱った書物によって、広く知られている。 当項目では広義の三国時代について記載する。 == 歴史 == === 戦乱の前段階 === 後漢朝は創立当初から地方豪族の力が強く、経済力を持った彼らは中央政府に一族を官僚として送り込み、また皇帝の后に一族の娘を送り込むことで外戚となり、更に大きな勢力を誇った。しかし159年に外戚の梁冀が宦官の力を借りた桓帝に誅殺された後は、宦官が中央を牛耳るようになり、そのことに豪族たちは強い不満を抱いていた。宦官は本来生殖能力を喪失した男性であるが、養子をとることにより世襲貴族となることを志向する者も現れ(魏の祖となった曹操の祖父である曹騰はその一例である)、豪族層の反感をかきたてた。 豪族たちは宦官勢力を濁流と呼び、自分たちを清流と呼んで宦官たちを非難した。これに対して宦官たちは党錮の禁(禁錮、当時の用語で公職停止を意味する)と呼ばれる弾圧を行った。一方では悪政が続く中で民衆の生活は窮迫し、これらの民衆は張角が教祖として率いる太平道(道教の源流の一つとされる宗教団体)に救いを求めるようになった。 多くの民衆を吸収した太平道は、184年についに反乱を起こす(黄巾の乱)。宦官はこの乱の発生に困惑する。宦官たちには軍の指揮は出来ないので、どうしても豪族たちを起用する必要がある。朝廷は霊帝の皇后何氏の兄である何進を大将軍とし、党錮の禁を解いて皇甫嵩・朱儁らを将軍に任じて鎮圧に当たらせた。官軍の奮戦により黄巾軍を何度か撃破し、途中で張角が病死したこともあり、同年のうちに鎮圧に成功した。しかし鎮圧後も中央政府の悪政は変わらず、民衆の不満も豪族たちの不満も解消されないままであり、各地に黄巾の残党が散らばったことで反乱は続いていた。 この頃、西の雍州・涼州で韓遂・辺章・王国らが羌族や氐族とともに後漢に反逆し、後漢の張温・皇甫嵩・董卓らと激しい戦いを繰り広げた。 霊帝の時代、劉焉は地方の支配力が弱くなっていることを理由に刺史の代わりに州牧を置くことを提案した。また、劉焉も益州牧となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「三国時代 (中国)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|